菅義偉さん自民党総裁選勝利、
おめでとうございます

以前このチャンネルでは、
菅さん、石破さん、岸田さんの3人の
総裁選候補者についてまとめて、皆さんにご紹介しました。

今回は
昨日、自民党総裁選で勝利し、
ほぼ時期内閣総理大臣となることが確定した菅義偉さんについて
もうちょっと詳しく、
どんな人で、どんな人生を送り、
どんな政策を打ち出しているのか?

見ていきたいと思います。

これ、日本の未来を左右する、とても大切なことですからね。
ぜひ皆さんの未来を考える上でも
参考にしていただけたらと思います。

 

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基本プロフィール

◆年齢:71歳(2020年9月現在)

◆出身:秋田県

◆血液型:O型

◆家族  
妻・息子3人マンション住まい

◆好きな食べ物 
パンケーキ・甘いもの・めん類
アルコールは全然ダメ

◆愛読書:歴史もの

◆スポーツ:学生時代は空手(空手部副主将)

◆趣味:渓流釣り・ウォーキング

◆出身校:法政大学(法学部政治学科)

◆当選回数:8回

◆選挙区:神奈川

◆派閥:無派閥

 

菅義偉さんの人生

生い立ち

今の秋田県湯沢市の生まれです。
かつては雄勝町(おがちまち)という名前でした。
秋田県の内陸部にある
人口42,000人の小さな町。

秋田杉に囲まれた自然豊かな田舎町です。

Akita Ogachi town

 

お父様は戦前は満洲鉄道の職員でした。
1941年にいわゆる「満蒙開拓団」
として中国・満州に渡ったそうです。

ところが1945年8月、終戦の年ですね。

ソ連軍が突如、不可侵条約を破って侵攻してきます。
それによって7万人もの日本人が亡くなったそうです。

お父様はそんな中、妻と幼い2人の娘と一緒に
命からがら故郷に逃げ戻ってきました。

菅さんが生まれたのは
その2年後のことです。

菅さんのお父様はバイタリティ溢れる人で、
満州から帰ってきた後は
いちご農家として農業を営んでいました。

そしていちごのブランド化に成功。
地元の名士となり、
町議会議員などを務めたそうです。

 

上京

母、叔父、叔母、2人の姉は
みな教員だそうです。

なので、大金持ちとか、
いい家柄とかではないけども
田舎の農家の、しっかりした家庭に
育ったという感じですね。

そんな中、菅さんは普通で行けば、
長男なので農業を継ぐか、
もしくは教員になるという道に進むはずでした。

周りもそういう進路を勧めていたようです。

ところが、菅さんは
農業を継ぐことも、教員になることも嫌で、
田舎に住み続けることも嫌だということで、
集団就職で上京するという道を選びます。

のちに

「鉛色の空に覆われた村が嫌だった」

「東京へ行けば何かが変わると思った」

と語っているそうです。

 

 

就職から大学進学

夜行列車で上京して、
菅さんが就職したのは東京・板橋にあった段ボール工場。

しかし、そこでの日々は
思い描いた東京での生活とはまったく違ったものでした。

退屈な日々に嫌気がさし、
「視野を広げるため、大学で学びたい」
という思いを抱いた菅さんは
段ボール工場を退職。

入学金を貯めるため、
築地市場の台車運びなどのアルバイトもしながら、
アパートに帰れば試験勉強という生活を2年間続けたそうです。

これ、並大抵の努力じゃできないですよね。
若者が受験勉強しながら、
アルバイトして自力で学費を貯めるって。 

そして、2年後、
1969年、法政大学に入学します。

なぜ法政大学かというと、
私立で一番学費が安かったからだそうです。

 

学生時代

菅さんが入学した法政大学は、
当時、東大や早稲田と並んで、学生運動の拠点だったそうです。

学生運動というのは
ソビエトや中国みたいに日本でも革命を起こして、
社会主義の理想郷をつくるぞ!という学生たちが起こしていた運動です。

日本赤軍とか、革マル派とか、
浅間山荘事件とか、
テレビで耳にしたことがある人も多いと思います。

日本でも学生が政治活動に熱を入れていた時代があったんですね。

ところが、
菅さんは学生時代にはそういった活動には一切参加せず、
アルバイトをして学費を稼ぎながら
空手に打ち込んでいたそうです。

意外ですよね。
この頃はまだ政治にそんなに興味を持っていなかったのでしょうか?

ともかく政治活動とは一切縁のない学生生活を送り、
大学を卒業しています。

 

政治の世界へ

卒業後は、電気関係の民間企業に就職します。

しかし、平凡なサラリーマン生活を送る中で、
またまた生き方に疑問を持つんですね。

「世の中を動かしているのは政治だ、人生をかけてみたい」
と思い、
政治世界に興味を持つようになったそうです。

ところが、
政治の道に進もうにもまったくツテがなく、
どうやってなったら良いかもわからない。

ということで、母校法政大学の学生課を訪れて頼み込んで、
OB会から国会議員事務所を紹介してもらったそうです。

すごい行動力ですよね。

皆さんだったらいきなり母校の学生課を訪ねて行って
「誰か紹介してくれ」なんて、頭を下げられますか?

普通の人は何か夢があっても、
「でも俺にはなんのツテもないしな」
となると、そこで諦めます。

というか、まったく動かないまま
夢を諦めてしまう人がたくさんいます。

すごいですよね、本当に。

そんなこんなで、
なんとかを切り開いた菅さんは
自民党の小此木彦三郎(おこのぎひこさぶろう)元通産大臣の
秘書になり、11年間、勤めたそうです。

 

市議会議員に 

その後、横浜市議会議員選挙に立候補。

当時、菅さんは38歳。
3人の息子さんたちはまだ幼く、
しかも現職の自民党議員を相手に戦う選挙となったため、
周囲からは猛反対されたそうです。

しかし、菅さんの意志は変わらず、
1日300軒回って支持を呼びかけて歩いたそうです。

その地道な努力の甲斐あって
自民党議員を破って、奇跡的に初当選。

そこから横浜市会議員を2期務めたそうです。

横浜市議会では
自民党の若きエースとして活躍。
「影の市長」といわれるほどの実力を発揮したそうです。 

 

国会議員に

しかし、地方議員として務める中で、
中央集権型の政治体制に疑問を持つようになり、
国会議員を志すようになります。

そして、市会議員を辞職し、
浪人生活を経て、
47歳で初挑戦、初当選します。

 

まさに叩きあげですよね。
エリート街道まっしぐらの政治家とは訳が違います。

 

国会議員になってからは、
竹下(登)派の七奉行の一人といわれた
梶山静六を師と仰ぎ、
その頃から構造改革を、自民党改革の問題に熱心に取り組んでいたそうです。

 

行政改革

菅さんは今掲げている政策を見てもわかるんですが、
金融とか経済とか外交よりも
構造改革、行政改革に強い政治家です。

国会議員になってからは

国土交通大臣政務官、経済産業大臣政務官を歴任した後、
小泉内閣、竹中平蔵総務大臣の元で総務副大臣として手腕を振るいます。

 

その後、
ポスト小泉を選出する2006年総裁選の時には安倍さんを支援します。

「安倍には、国はこうあるべきだという、しっかりした国家観がある。
 それに改革意欲も強い。俺は安倍を担ぐ」

と言って、議員たちに呼びかけ、
安倍総理を総裁選に担ぎ上げたそうです。

この時から、
菅さんと安倍さんの信頼関係は続いているんですね。

 

そして、見事、安倍さんが総裁選に勝利し、
第一次安倍内閣が成立すると、
総務大臣兼郵政民営化担当大臣に任命され、
初入閣を果たします。

その時、菅さんは当選4回だったそうなんですが、
当選わずか4回で入閣するのは異例のことだそうです。

 

総務大臣としては、
ふるさと納税の創設
NHK改革
地方分権改革法案
郵政民営化などに取り組み、
わずか1年の間に19もの法律をつくったそうです。

非常にまじめで、堅実、人を支えるタイプなのですが、
一方で官僚を押さえ込んで統率したり、
人事などでズバッと手腕を振るったりと、
かなり豪腕な一面もあります。

 

しかし、残念ながら安倍さんは持病の潰瘍性大腸炎で
退陣を余儀なくされてしまいます。

続いて成立した麻生内閣では
選挙対策副委員長を務めますが、
自民党は民主党に大敗。

下野することになります。

 

第二次安倍内閣

民主党政権下では、菅さんはなんとか政権を取り戻さないといけないということで
自民党の組織改革を進める一方、
安倍さんの復活に向けて奔走します。

なんで安倍さんをそんなに推すんだと聞かれた時に菅さんは

「安倍晋三という男の魅力、リーダーシップ、
 彼と接してみればよくわかる」

と答えたそうです。

そして、 甘利さん、麻生さんら、党内の実力者たちに
協力を呼びかけて画策。

その甲斐あって、対抗馬の石破さんを破って
2012年、安倍さんは再び自民党総裁に返り咲きます。

そして、
自民党幹事長代行として安倍さんを支えて、
民主党から政権を奪還。

 

第2次安倍内閣が発足すると
内閣官房長官に任命され、
安倍政権の屋台骨として約8年に渡って政権を支え続けます。

 

2019年5月1日には
新元号「令和」を発表。

令和おじさんとして話題を呼びます。

 

菅さんの政策

では、自民党総裁=総理大臣候補としての
菅さんの政策、目指す方向性はどんなものなのか?

その柱は大きく分けて6つです。

1)コロナ対策

2)行政改革

3)雇用創生

4)地方再生

5)少子化対策

6)安全保障

 

 

1)コロナ対策

感染対策と経済対策の両立。
そして、検査体制、医療体制の整備。
ワクチンの確保を掲げています。

 

2)行政改革

縦割り行政の見直しを掲げています。
例えば、ダムについて、先日、熊本県で洪水が問題になりましたが、
縦割り行政のせいで全国で900のダムが治水に使われていない状態にあるそうです。

また、マイナンバーカードの普及、活用にも力を入れていくそうです。

 

3)雇用創生

最大200万円の持続化給付金、
最大4000万円の無利子無担保融資など
230兆円の経済対策を行い、産業や雇用を守っていくそうです。

 

4)地方再生

地方創生は秋田県出身で、
地方議会議員としてのキャリアをもつ菅さんにとっては
もっとも力を入れていきたい分野の一つです。

最低賃金を全国的に引き上げるとともに、
農業改革や観光業の支援をしていくとのことです。

 

5)少子化対策

菅さんはこれまでにも幼稚園・保育園、大学・専門学校の無償化、
男性の国家公務員による最低一か月の育休取得などの政策を進めてきたそうです。

今後も不妊治療の支援拡大、待機児童問題の解決を目指すそうです。

 

6)安全保障

安全保障や外交問題については、

日米同盟を基軸とした安全保障政策を展開していくそうです。

拉致問題解決や憲法改正についても触れてはいますが、
安倍さんほどの熱意は感じられないですね。

 

7)デジタル庁の創設

もうひとつ注目すべきことは
デジタル庁の創設に言及していることです。

以前からこのチャンネルで指摘している通り、
日本の行政はものすごくデジタル化の分野で遅れています。

一見、デジタル化しているように見えても、
その裏で手書きの帳簿を出させていたり、
手続きが煩雑化していたりと、
実は「見せかけのデジタル化」だったという場合も多いです。

それを各省庁に任せるのではなく、
強烈に、横断的に押し進めるデジタル庁。

その創設は、本当に日本にとっては必要なことです。

 

ということで、
今回は新自民党総裁、そして新内閣総理大臣。

菅義偉さんの人生や政策についてまとめてみました。